音の終わりの意識
音の終わりの意識 さて、今回はコラム風です。 夏もそろそろ終わりですがセミが鳴き止んだことにすぐに気づいた方いらっしゃいますか? 大体の人が、ふと気付いた瞬間に鳴き止んでいた、くらいのものではないでしょうか。 セミが鳴きだした頃には結構な人が気づいているように思うのですが、不思議ですねえ。
終わりの音への意識から音楽やバンドのアーティキュレーションに繋げて書いてみます。
なぜ終わりに気づかない?
なぜ終わりに気づかないのかなあ、とか考えていると、そういえば楽器の初心者も音の始まりには気をつけるけど終わりには中々意識が向かない、ということを思いだしました。
いわゆる「アーティキュレーション」とかの言い方もしますが、音の長さなんかもそうですね。
人間って、割と始まることには敏感で終わることには鈍感にできているのかな、という気もしています。
物事が終わること、例えば「卒業」「引退」・・・・まあなんでもありますね。それこそBGMが気づいたら終わってた、というのもそうです。音楽が鳴り出したらみんなわかるのに、です。
終わり、ってなんだかネガティブなイメージもあります。「死」はまさにそうですね。そういったネガティブなイメージのものを人間は本来遠ざけていたのかもしれません。
もしくは生物としてそれを遠ざけることが、結果種の繁栄につながるのかもしれませんね。いわゆる「鈍感力」というのかもしれません。
と、めちゃくちゃ壮大に話が逸れていきますが、なんとなくそういうことを思ってしまうのです。
学校の生徒さんにも関わることが多いですが、「卒業」の後にすぐ新しい「出発」があることがほとんどですよね。
なもんで卒業悲しい!という感情はすーっと引きずることはないんですね。人間って新しい環境に飛び込むと割合簡単に順応していくものです。便利に出来ていますね。。。 「終わり」の後には「始まり」が大抵あるので「終わり」をそこまで意識しなくて済む、のでしょうか。
では音楽の話に戻ってみます
さて、ここまで考えたところで音楽の話に戻ってみると、音楽を演奏していると大抵の場合次の音というものが存在します。アウトロの最後の一音の時以外は大体続いていきますよね。
次の音への意識があると、前の音の終わりに意識が行きにくい、ということになるのかもしれません。
ところが!人間って揃ってない音を(特にリズム)を聞き分ける能力が優れています。 狩猟をする際に、また危険を予測するためにも、人間の耳は左右の耳で聞こえたレベルの差をなんとなくわかるものなんですね。
なので何かの音がした時にそれが「右斜め前から鳴っている」とか「左後ろだ」とかわかるわけです。
こういう能力があるので、音の終わりがズレている、というのは分かってしまうんですね。 ただしそれの「どこがズレていたのか」は中々分からないかもしれません。
しかし「なんかしっくりこない演奏だなあ」とは素人のお客さんでもわかるわけです。
と、無理やり?でもないのですが一旦壮大になりながらも無事に音楽の話に着地しました。
現代と昔の「音」による環境の違い
考えてみると今、日常では様々な音が鳴り続けています。 田舎の方に行くと虫の音だけ、風の音だけになって「耳が痛くなる」なんて表現も聞きますね。 自然界の音というのは規則性があまりないものも多く、心地よいと感じることも多い様です。
現代社会で生きていると都会では窓の外からも四六時中何かの音が聞こえています。 田舎でだって部屋の中には規則正しく音が鳴るものが沢山ありますね。時計の音、冷蔵庫の駆動音、扇風機、暖房・・・・・。電化製品は一定のパルスで何かしらの音を出していることがほとんどです。
クラシックの巨匠たちが育った時代やジャズの偉大なプレイヤーが育ってきた時代とは環境がまったく違うのだとも思います。これが悪いとかそういう意味ではないですよ。今でも沢山の巨匠が生まれていますしね。
しかし「違う」ということを知っておくこと、そしてそれを強みに出来るのか否か、なんてことも面白い議題の一つかもしれませんね。